村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
「いるかホテル」(本当はドルフィン・ホテル)に導かれ、羊男に繋げられて、素敵な耳を持つ女の子キキと、「自分が求めているもの」を探して、札幌から東京、ハワイ、再び東京、札幌へと、13歳の美しい少女ユキを道連れに、僕の旅は続く・・・奇妙で複雑なダンス・ステップを踏みながら・・・。
一体キキはどこへ消えたのか、六体の白骨は誰のものなのか・・・
簡単に要約すると、こんな感じでしょうか。
途中サスペンスを思わせるような要素もあります。
でも、これは「僕」自身の物語。
「僕」が旅しているのは、「僕」の心の闇。
以前(10年くらい前でしょうか)読んだ時には、表層的な部分ばかりを読んで面白いと思っていました。「これは村上春樹的なサスペンスなんだ」と。一般的なサスペンス(そういうのをわたしは読まないので本当はどうだか知りませんが)とは大分趣が違うかもしれないけど、これはハルキワールドなんだからこれでいいんだ、と。物語をなぞるように、青山、渋谷、表参道を歩き、ハワイでピナ・コラーダを飲んで満足していたものです。(日焼けとサーフィンはしませんでしたが。)
年をとり、自分が主人公の年齢に近づき、そして再読してみると、かつては見えなかったことが見えてきます。これは心の闇の物語なのだと。
おそらく誰しもが多少の差こそあれ持っているであろう闇。
それを深く掘り下げ、掘り進み、再び光の当たる場所へ戻ってくる。
誰も好んで心の闇を掘り下げたりしません。それは危険も伴います。戻ってこられなくなるかもしれない。でも、必要でもあります。光と闇のバランスを図るため、コントロールするため…やらずにはいられない時もあります。
何となく、これは作者が、自分自身で行わずに物語の中で主人公に代わりにさせている、そんな風に思えました。
そしてそれを読むことによってこの物語は、読んだ「わたし」の代わりの物語なのだと、そのようにも思えます。
順番としては、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と読み進んでくるべきだったのですが、つい目に留まったこの作品から読んでしまいました。そして読みながら、先へ続くのは『ねじまき鳥クロニクル』かと思われるのでした。
(うーん、でもあの作品を読むのは辛いなぁ…)
そしてどうしてか、スガシカオが聴きたくなって、とりあえずⅰPodに追加。
作品中の印象的なフレーズをいくつか。
「世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。」
〈なるほど。その考え方、いただき。〉
「人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接すべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に。」
〈ごもっとも。わたしもそう心がけたい。〉
「どんなものでもいつかは消えるんだ。我々はみんな移動して生きてるんだ。僕らのまわりにある大抵のものは僕らの移動にあわせてみんないつか消えていく。どれはどうしようもないことなんだ。消えるべき時がくれば消える。そして消える時が来るまでは消えないんだよ。」
「時間というのは腐敗と同じなんだ。思いもよらないものが思いもよらない変わり方をする。誰にもわからない」
さて、ここから先は、ごく個人的な解釈を書きます。
この作品をまだ読んでいなくて、これから読む予定の方は、ここから先へ進まないでください。
「僕」は自分自身を探している。そして現実である“ こちらの世界”と“あちらの世界”(おそらくは死のようなものを象徴している)を行き来する。
その間、さまざまな個性的な人物に出会うが、彼らはみな何かの象徴。
たとえば、何をやってもチャーミングで感じの良い、中学の同級生で俳優の五反田君。彼は「僕」の分身。(終盤「彼は僕の唯一の友人であり、そして僕自身だった。」という記述もあるが。)ユキはおそらく、現実側の人物でありながら、“あちら”と「僕」との繋がりを認め、現実に僕を引き止めつつ、橋渡しもする人物。彼女の両親、作家の牧村拓と女流写真家のアメは、「僕」が自分から切捨てた部分、まだ得ていない部分を持ち合わせていることから、これもまたある意味では「僕」の分身。(例えば、「僕」を中間として、両極に牧村拓とアメが位置する。牧村拓は現実、アメは非現実。「僕」はアメとユキが一緒にいる空間を好まないが、それは、非現実が“あちら”と結びつくと、現実に戻れなくなってしまうから。)そしてユミヨシさんは、非常に“現実”の人物。彼女が羊男の空間と結びついてしまったのは、おそらく彼女は「僕」が“現実”に戻るための鍵だから。彼女を入り口であり出口という存在として、「僕」の奇妙な旅は始まり、そして終わる。つまりは「僕」の影であったキキに誘われ、五反田君に象徴される心の闇と向き合い、そして葬り去ることで。
一体キキはどこへ消えたのか、六体の白骨は誰のものなのか・・・
簡単に要約すると、こんな感じでしょうか。
途中サスペンスを思わせるような要素もあります。
でも、これは「僕」自身の物語。
「僕」が旅しているのは、「僕」の心の闇。
以前(10年くらい前でしょうか)読んだ時には、表層的な部分ばかりを読んで面白いと思っていました。「これは村上春樹的なサスペンスなんだ」と。一般的なサスペンス(そういうのをわたしは読まないので本当はどうだか知りませんが)とは大分趣が違うかもしれないけど、これはハルキワールドなんだからこれでいいんだ、と。物語をなぞるように、青山、渋谷、表参道を歩き、ハワイでピナ・コラーダを飲んで満足していたものです。(日焼けとサーフィンはしませんでしたが。)
年をとり、自分が主人公の年齢に近づき、そして再読してみると、かつては見えなかったことが見えてきます。これは心の闇の物語なのだと。
おそらく誰しもが多少の差こそあれ持っているであろう闇。
それを深く掘り下げ、掘り進み、再び光の当たる場所へ戻ってくる。
誰も好んで心の闇を掘り下げたりしません。それは危険も伴います。戻ってこられなくなるかもしれない。でも、必要でもあります。光と闇のバランスを図るため、コントロールするため…やらずにはいられない時もあります。
何となく、これは作者が、自分自身で行わずに物語の中で主人公に代わりにさせている、そんな風に思えました。
そしてそれを読むことによってこの物語は、読んだ「わたし」の代わりの物語なのだと、そのようにも思えます。
順番としては、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と読み進んでくるべきだったのですが、つい目に留まったこの作品から読んでしまいました。そして読みながら、先へ続くのは『ねじまき鳥クロニクル』かと思われるのでした。
(うーん、でもあの作品を読むのは辛いなぁ…)
そしてどうしてか、スガシカオが聴きたくなって、とりあえずⅰPodに追加。
作品中の印象的なフレーズをいくつか。
「世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。」
〈なるほど。その考え方、いただき。〉
「人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接すべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に。」
〈ごもっとも。わたしもそう心がけたい。〉
「どんなものでもいつかは消えるんだ。我々はみんな移動して生きてるんだ。僕らのまわりにある大抵のものは僕らの移動にあわせてみんないつか消えていく。どれはどうしようもないことなんだ。消えるべき時がくれば消える。そして消える時が来るまでは消えないんだよ。」
「時間というのは腐敗と同じなんだ。思いもよらないものが思いもよらない変わり方をする。誰にもわからない」
さて、ここから先は、ごく個人的な解釈を書きます。
この作品をまだ読んでいなくて、これから読む予定の方は、ここから先へ進まないでください。
「僕」は自分自身を探している。そして現実である“ こちらの世界”と“あちらの世界”(おそらくは死のようなものを象徴している)を行き来する。
その間、さまざまな個性的な人物に出会うが、彼らはみな何かの象徴。
たとえば、何をやってもチャーミングで感じの良い、中学の同級生で俳優の五反田君。彼は「僕」の分身。(終盤「彼は僕の唯一の友人であり、そして僕自身だった。」という記述もあるが。)ユキはおそらく、現実側の人物でありながら、“あちら”と「僕」との繋がりを認め、現実に僕を引き止めつつ、橋渡しもする人物。彼女の両親、作家の牧村拓と女流写真家のアメは、「僕」が自分から切捨てた部分、まだ得ていない部分を持ち合わせていることから、これもまたある意味では「僕」の分身。(例えば、「僕」を中間として、両極に牧村拓とアメが位置する。牧村拓は現実、アメは非現実。「僕」はアメとユキが一緒にいる空間を好まないが、それは、非現実が“あちら”と結びつくと、現実に戻れなくなってしまうから。)そしてユミヨシさんは、非常に“現実”の人物。彼女が羊男の空間と結びついてしまったのは、おそらく彼女は「僕」が“現実”に戻るための鍵だから。彼女を入り口であり出口という存在として、「僕」の奇妙な旅は始まり、そして終わる。つまりは「僕」の影であったキキに誘われ、五反田君に象徴される心の闇と向き合い、そして葬り去ることで。
by chiemhana
| 2005-09-10 13:20
| 本